自分が今ここにいることが不満でしょうがない。今すぐここから外へと逃げ出したい。
これが、若い時に私が抱いていた感情である。内で何かをするのではなく、とにかく外へ行きたいという欲求は、自分の醜さはもちろんのこと周囲の醜さにも由来するものであった。自分は周囲から疎まれ、自分を真に味方してくれる人など一人もおらず、自分は一人孤独に生きる他ない。
この記憶がフラッシュバックしたのは、ホンダソウイチ氏の『親密』をどのように額装するかを、世界堂の店員の方と相談している時であった。それは、作品の中の彼らは、当時の私とは全く異なり、幸せそのものであるからだ。良い環境で、仲の良い友人が存在し、誰かに矯正されていない自然な生き方をしている。彼らはそこにいることに喜び、満足している。
仲の良い友人や先輩後輩、そして彼らを守り支える学校や天使、これらによって彼らは美少年であり、今後も美少年であり続けることが分かる。そして、良い作品というのは、観る人に強烈な何かを与え、それにより思考や行動が変わる。ホンダソウイチ氏の『親密』は、私の歴史と現実的に生きている今をどう捉えるかを考えさせ、変化を与えた。私を強く雄々しくあろうとさせた。
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観る者に圧倒的当事者意識を与える作品
私にとっての学校というのは、嫌で嫌でしょうがない場所であった。特に高校はひどい場所だった。つまらない授業ばかりで、教科書検定の制度によるとはいえ数十年前の常識しか教えず、また深さも大してない。地元の落ちぶれた有名学校には歴史しかなくプライドばかり。変に人を縛ることばかりで本当に人を成長させることは考えず、ただ大人が望む言いなりの奴隷しか作らない。より学校をひどい場所にしたのは、高校の置かれた地域であり、ただでさえ閉鎖的な学校が、田舎の男尊女卑、閉鎖的、よそ者への憧れと嫉妬などの土地の影響を受けてしまっていた。そこがいかにひどい場所なのかは言葉に尽くせないのでここで終わらせよう。そして、残念なことに、教員免許ならびに専修免許を取得した今になっても、出身校に対するこの認識は変わっていない。
地元から外に出て、人の話を聞くと、学校は良い場所であり、楽しかった、と言う人もいる。なぜなのかが本当にわからなかった。軍隊の真似事の体育教育、謎で不合理な上下関係、暴力と暴言、頭の悪い教師たち、これらがあるのになぜなのか、さてはこの人はイジメる側、教師の側だったのではないかと最初は疑った。しかし、どうもそうではなく、そのようなひどい環境が無い学校が存在するらしい(もちろんその人が認識していないだけかもしれない)。軍隊の真似事はなく、尊敬し合う関係、友愛と柔和、かしこい教師たち、たしかにこのような環境だったら楽しく感じるだろう、不幸も少なく済むだろう。実際、筆者も、今は地元から遠く離れ、良い人と良い土地に巡り合うことができた。地元では評価されなかったことが正当に評価され、人々の優しさや人類に希望があることがわかるようになり、これが可能なところでは良い学校も存在しうるだろうと認識は変わった。
学校と土地が良ければ、顔が良ければ、人から愛されれば、親友と呼べる人がいれば、私は真っ直ぐな人になれただろうか、という仮定に度々思いを巡らせてしまう(やはりひねくれた成長をしたのかもしれない)。このようなたらればの思いを巡らせることによって、私は何を得られなかったのか、私には何が無いのか、ということを想像していた。しかし、そのような想像の中でもあの日の暗い部分は避けられていた。自分の鬱屈とした生活を思い出さないように、現実的な人間になったことへの絶望を感じさせないように、自分の潜在意識が隠すように誘導していた。しかし、ホンダソウイチ氏の『親密』は、自分の暗い部分、自分の隠したい部分をありありと突きつけてくる。
筆者にとっての良い作品の指標というのは、文章を書かせることであり、文章を書く前にその作品が当事者意識を与えることが要求される。ホンダソウイチ氏の『親密』を繰り返し眺め考えを巡らせるうちに、この作品に描かれている彼らと私との大きな違いに気づき、この作品が自分のためのもののように思えてきた。
純粋さを失わない美少年
先日の文章「喉仏のある美少年はどうして美少年でありうるのだろうか」において、古典的美少年観の三つの要素として、純粋さ、無垢さ、性の未分化を取り上げた。そのうち、純粋さに関する説明を十分にはしなかった。この純粋さこそがこの作品『親密』にとって本質的なものであると私は見ている。というのも、人の世においては、その肉体的変化によって引き起こされるものによって、さらに、自己の肉体以外にも周囲の環境や人間によって、純粋さはいともたやすく失われてしまうからである。しかし、その純粋さが、三人からはなぜか失われておらず、そして失わないであろうことが予見できる。
自分および自分達が世界の中心であること、ただ仲の良い親友と一緒に過ごすこと、敵も味方もないこと、全てに満ちていること、今日に満足し将来の不安のために明日の計画などを立てないこと、今この瞬間が永遠に続けば良いと思うこと。このような子供のときにあった純粋さというのは、大人にはない。それらと真逆のことしか成り立たず、純粋さの真逆を許容することこそが大人らしいことである、と評価される傾向にある。第二次性徴を超えた段階で純粋さの多くがなくなり、自分で生計を立てるようになってからは尚更である。
『親密』の三人は純粋さを失っていない。何故それが可能なのか。そして、それが自然であるように鑑賞者に感じさせるのはなぜだろうか。その原因・理由を筆者は三つ見出した。
- 性が未分化であることとペニス臭さがないことにより、性欲に伴う失敗や喪失がないこと
- 三人の手入れの行き届いた服からも見えるような学校からの保護、島という環境による外界との隔絶、これらがなされていること
- 絵の上部に座している天使らによる加護があること
喪失を生み出す性欲が存在しない
前回の記事で述べた精神的美少年と重複する部分は省くが、我々は性欲や異性への欲望とによって、多くの失敗と喪失を経験する。性欲というのは独占欲を生み出す。独占というのは複数の求める人がいたら必ず少なくとも一人は失敗することを意味する。独占的な恋愛関係によって、誰かの恋人になるということは誰かが恋人になれないことを意味している。また、性欲は一時的快楽の代表格であり、その一時的快楽のために長期の幸せを手放してしまう事例は枚挙に暇がない。不倫などのスキャンダルだけではなく、ジャンクフードによる今の快楽のために長期的な健康という幸せを手放してしまう。これら独占欲と一時的快楽、つまり性欲によって我々は多くの失敗をし、純粋さを喪失してしまう。
彼らはそうではない。Shirly Field が Rosa の肩に顔を乗せ、手と手を重ね指を少し絡めているが、そこに性欲は見られず、敬愛や尊敬のためのもののようである。その二人を見ても Elma Pickens は気にしておらず、Rosa にヒソヒソと何かを囁き、先輩が奪われるような心配などは一切ない。そして Rosa Simone も彼の言葉にほほえみ、恥ずかしさも見せず、自然にしている。この三人の関係が恒久に続くことを示唆しているのは、性欲に伴う独占欲や一時的快楽、これらによって発生する喪失がないという確信を観るものに与えることによる。
三人を手厚く守る環境が存在する
現実の学校というのは、規範や規則を内面化した人間を再生産する装置である。そして、現実の学校は、規則や規範から外れる人間を非難し、それらに対する疑いの目を向けさせず、かつ、虚偽と不正に満ち溢れている。さらに、再生産のための方法も確率的なものを採用し、期待値重視で、お金も労力を大して出さない。(大したことをしていないのに、誰かが成功すると自分の手柄にする。それは自分が否定していた生徒・児童であってもだ。)
『親密』の三人はどうか。手入れの行き届いた服、金に輝くボタン、木々も綺麗に剪定されている。彼らの姿勢や所作からは十分な教育を受けつつ、かといって強制された印象は受けない。また、灯台と小舟の存在から、ここは島なのだろうか、外界から離れ、地域の影響を少なくしていることも分かる。このように彼らは経済的・技術的・教育的環境が十分に整備されたところにあり、学校そして大人たちは彼らのための最高の環境を用意している。絵の外にいる大人たちは、純粋に、彼らの魂が最高の状態になれるためのガイドをしているのだ。彼ら大人たちはそれ相応の努力をせざるを得ないはずである。しかし、黒子に徹しており、遠くの舟のように、遠くにその存在を感じさせるにとどめている。
天使が守っている
純粋さを喪失しないためには、ただの環境整備や幸運だけでは足りない。例えば、人は人を愛しすぎてしまうという問題がある。良い環境や良い仲間があるところで、人は愛を加熱させてしまい、愛しすぎてしまうが、極まった愛は憎しみとなってしまう。このような環境や幸運だけでは足りないところで必要なのは、運命や神の導きである。
運命や神の導きの存在が示唆されているのは、絵の上部に座している天使である。アーチの上、この三人がいる空間から切り出されたところで、三人を見守り、かもめを使者として送り出している。これは上記の大人の存在とも重なるが、運命や導きというより重要な役割を担っており、天使と使者によって、彼らは今後も美少年であろうという確信を得させてくれる。
恐怖を抱く対象を額に入れること
前回の記事とこれまでの記述から、彼らが美少年であり、そしてこれからも純粋さを喪失せず、美少年であり続けることが分かった。しかし、人が成長するためには、何かを喪失し、それを乗り越えるという、通過儀礼的な経験が求められる、というのが通常の認識である。三人は、『親密』ならびに他の三部作を観るに、何かしらの成長をしているはずである。では、この三人は何を喪失したのだろうか、もしくは、これから何を喪失するのであろうか。
私にはそれがわからない。喪失したものが見えないからと言って、彼らが未成熟であったり幼稚であったりすることは意味しない。確かに成長している。ここで私の背筋が凍った。
喪失することなく、彼らは成長している。喪失とその克服の体験なしに成長するというのは、人の世の私とは全く異なる存在である。そのような存在に対し、恐怖、もしくは畏怖を抱かざるを得ない。彼ら三人は私の得られなかったものを多く持っており、私が望んでも手に入らず、そして私が成長する上で喪失した大切なものを経ずに私の先をゆく。現実的になってしまった私とは全く異なる存在・種である。
この特徴が、今の私との明確な差、過去の私の苦い感情をありありと思い出させてくる。
鑑賞可能でかつ到達不可能な距離としての額
『親密』の三人とは異なり、暗い学校生活を送った私の転機は、場所を変え、関わる人を変え、見せ方を変えたことにより、私にとっての当然を多くの人が評価してくれたことである。この経験故に、低くされているものを高くすることが私の使命であると、仕事においても人生においても、自分に課すようになった。自己弁護や自己保身のためかもしれないが、人は失敗や喪失を経由しないと成長しないと思っている。だからこそ、失敗や喪失を経由せずにに成長しているように見えてしまう存在は、私にとっての憧れであり理想郷であり見える場所にあって欲しいと思う一方で、同じ空間の中で到達可能なところにあってはならないという恐怖を抱いてしまう。このような、畏怖すべきものが、遠く離れた場所にあり、かつ、鑑賞可能な場所にあることによって、現実の私は強く雄々しくあることが可能になる。そのために、額装という境界線を引かねばならなくなった。
どのような境界線を引くか。まずガラスの素材についてはすぐ決まった。というのも、室内でしっかり見えるようにあって欲しいとなったので、低反射ガラスを採用することにした。これはちょうど、せせらぎのようなすぐ向こうにあるような感覚を与えてくれる。カンジ氏の『【改訂】蜘蛛の糸:要因 M』は、通常のアクリルガラスを使っているのは、作品のテーマの一つである地獄という存在はもちろん、カンジ氏の独特の奥行きが観る人の境界線を曖昧にさせ、そこに存在するというリアティを与えてくるために、距離感を与えるためであった。今回はその距離感を設けたくなかった。そのために、低反射ガラスを採用した。
枠の方をどうするかは相当に悩んだ。絵におけるいくつかの特徴をどう掴むか、枠と絵との違和感を与えることなく私と作品との間に境界線を与えてくれるか。今回も世界堂の店員さんに大変お世話になり、多くのことを相談した。サイズは M8 号だったので、オーダーメイドだけでなく、既成品の枠も選べるので、選択肢は広かったが、まずはオーダーメイドすることを考え、いくつかの枠をピックアップしてもらい、枠とオイルライナーとなる組み合わせを考えた。いくつかのほしい特徴を満たすものはあった。金のボタンと合わせて金の要素、彼らの環境の豊かさと落ち着いている様子、制服に合わせた青色、青の部分は制服の布地に合わせて筆跡や木目などが見えるようなもの。これらが頭の中にあり、どうにかして良い組み合わせが作れないか試行錯誤を繰り返すも、ベストなものは見つからない。徐々にイメージが明確になってきているのに、確証が得られず、半ば諦めかけた。一旦落ち着こうと、店内を見回っていると、M8 号サイズではないが、まさしくこれだというものが見つかった。レインボーという名の既製品のもので、青と金のカラーリングである。額装の相談の順番待ちの際に見ていたはずなのに気づかなかったのか、それとも、試行錯誤を経たことによって目が開かれたのか、とうとう見つかった。すぐに私は店員さんに在庫の確認をした。しかし、このレインボーの M8 号の在庫はなし、その上メーカー欠品ということで、最悪二ヶ月待ちになると申し訳なさそうに言われた。しかし、問題はない。なぜなら、それが今ある中で最高のものであったからだ。私はお金を払い意気揚々と家に帰った。手元から最悪二ヶ月離れることは若干の寂しさを覚えたが、深刻なものではなかった。良い絵画が私にとって最高の状態になるのだから。
意外なことに、二ヶ月も経たず、四月二日には受け取ることができた。受け取ったのは思ったとおりの出来であった。低反射のガラスは蛍光灯に反射させると赤紫に見えるが、正面から見ると、まるでガラスが存在しないかのではないかと疑わせるほどである。枠も絵に違和感を与えず、親和し、それでいて、絵と私との境界線を与えてくれている。以下にその撮影した画像を載せる。
いかがだろうか。枠とアクリルガラスによって、せせらぎのようにすぐ向こうにあるが、それは超えてはならない三途の川のように、大きな敷居がある額装となった。
唯一の誤算は、額装することによって全体のサイズが想定よりも大きくなったことだ。世界堂では、周りの枠や絵画と比較して小さく見えていた。壁に吊るすことはできなくなったので、今回は卓上のイーゼルにすることにした。ラーソン・ジュール・ニッポン イーゼルの 60Hは絵を載せるサイズとしても卓上のスペースとしてもちょうどよかった。幸運である。今も卓上イーゼルに載せた『親密』を眺めながらこの文章を書いている。
すぐそこに、幸せそうな三人がいる。しかし、境界線があることにより、私は理想郷を畏怖の感情を持ちながらも、現実的な地上世界において強く雄々しくあろうという気持ちが湧いてくる。
まとめ
長い文章になってしまった。しかし、この作品『親密』は一体なんだったのだろうか。もう少し考えてみよう。前の記事では、第二次性徴の経過と無垢であり続け、性の分化がなされていないことから、古典的美少年観とは違った特徴について話した。今回の記事では、現実的な地上の私との大きな差異と断絶を与える要素があることを語った。また、彼らが初登場していると思われる画集と本作とを比較すると、違いが大きくあまり考察が深められなかったことも付記しておく。結局のところ、まだまだ考察が足りない。
ワインを何本開けたかは分からない。アルコールで頭が回らなくなりがちなので、今は A&W のルートビアを飲んでいる。
彼らは酒に頼ることもなければルートビアを飲むこともないだろう。現実的な私が夢見、求め、諦め、そして捨てた理想郷に彼らはいるのだ。そして、私の過去と私が捨てた理想を、私に突きつけてくる。
仮説は色々出てくるが、もう筆は置くことにする。もう少し時間を置き、長い時間を『親密』と共に過ごすことで得られるものもあるだろう。すぐ近くにありながらも明確な境界線が引かれた作品と、緊張感と安心感の両方を保ちながら、当事者として一緒に時を過ごせるのだから。また何か気づきを得られたら、記事として共有しようと思う。
それでは。
青を心に
仲葉あたお