私が子供の頃、地元の教会の聖歌隊に参加していた。その頃と、30 を過ぎ青年どころではなくなった現在との決定的な違い、そして私が少年でなくなった決定的要素というのは、稲垣足穂の言葉を借りると次の通りである。
少年の命は夏の一日である。
青年期へ足をかけ、ペニス臭くなったらもうおしまいである。
私が所属していた聖歌隊というのは、多くの人が「聖歌隊」という単語で想像するようなウィーン少年合唱団といった立派なものではなく、歴史もなければ教師もいない、クリスマスシーズンの一時的な小さな活動のものであった。しかし、クリスマスイブ礼拝の時に大人たちは大層喜び、そして私達の歌声を褒めてくれた。なぜ、あんなに彼らが喜んでいたのか、当時の私は子供だからお世辞で褒めてくれるのだろう、と思っていた。
声変わりをしてしばらく経った後、ある程度ものがわかるようになってから、少年聖歌隊だけではなく、高校生や大人の聖歌隊のも聞いたことがある。大人の聖歌隊は、十分な訓練や教育がなされており、その技巧的なところで褒められるが、少年聖歌隊のような甘美さはない。それは同じソプラノであっても、どんなに技巧を凝らしても女性のソプラノは、ボーイソプラノを超えられない。あの時私が参加していた聖歌隊は子供たちで構成されており、声変わり前だった子供らの声は、たとえ十分な訓練や教育を受けてなくとも、とても甘美だっただろう。あの時、大人たちが子供の私たちを褒めてくれたのは、本心からだったのである。
この少年特有の美しさというのは、声だけではない。もちろん無垢さや無教養さもある。何が少年と大人や青年との違いがあるのか。それについて、稲垣足穂は、女性の円熟と比較し、少年の美しさの短さと変化の起点を上記のように述べていた。日本の稚児文化や古代ギリシャの少年愛から考えても、この第二次性徴前かどうか、というところが少年や美少年の一つの指標として使われうるだろう。故に、ペニス臭くなったら、もう青年である。どんなに美しくても、美少年ではなくなる。なぜなら、彼は少年ではないから。これが私の考える古典的美少年観の一つの要素である。
自分自身の(性)体験を考えると、稲垣足穂が示したような少年観には一定の正しさがあると思ってる。しかし、2023 年 1 月 8 日を境に、私の中でその少年観ひいては美少年観に大きな変化が起きた。
私は今や、ある美少年らに出会い、その従来の美少年観が完全に崩れ去ったことを告白しなければならない。喉仏があっても美少年でありうる。
Table of contents
Open Table of contents
2023 年 1 月 8 日、原宿
2023 年 1 月 8 日、原宿で開催された「美少年展」で、私は忘れられない絵画に出会った。その作品は、ホンダソウイチ氏(@aonowaisyatsu)の『親密』だった。その日観た時には、大きな感情を抱かなかったが、それ以降 2 ヶ月以上も頭の隅に残り続け、私の心に刻まれている。
この作品が私の心を捉えた理由は、当初はわからなかった。そこで、同年 1 月 15 日に再度「美少年展」を訪れた。しかしそこでも、何故私の心が惹かれるのかがわからなかった。その後、書籍を読んだり、購入したポストカードを見たりしながら、考え続けた。しかし、この疑問は解消されなかった。そしてとうとう 2 月下旬になって、この作品が私の脳裏に残り続けた理由を理解できた。
この美少年らは私が持っていた古典的な美少年観とは大きく異なっていたから、私の心から離れなかった。彼らの魅力は、自分の中の固定観念を大きく揺さぶっていたことで、私の心を捉えていたのである。
この理由を理解し、納得したが、しかし、まだ私の心からホンダソウイチ氏の『親密』が離れない。
ある物事が記憶に残る理由は、多くの場合、強い印象があったことによる。その強さは瞬発的なものだけでなく、ボディブローのように持続的なものもある。たとえば、食事の場合、美味しさはその瞬間だけでなく、後になって心に残るものもあり、友人に話したくなってしまう。このように、印象深い体験は、時間がたっても色あせることがなく、価値がある。しかしそれは、良い側面だけを取り上げているだけであり、悲惨なものも記憶に残り、ずっと語り続けられる。では、ホンダソウイチ氏の『親密』はどちらだろうか。両方の側面がある。
確かにこの作品は素晴らしい。しかし、彼の作品は私のこれまでの経験、知識、思想を大きく揺さぶるものであり、心理的負担を大きくかけるものであった。作品を鑑賞する過程で、自分自身の美的感覚や世界観を見直すきっかけを得ることができ、その過程で生じた心理的負担が強くのしかかったが、それを乗り越えられた。
自分のこれまでの常識の認識と固定観念を超えたことにより、新たな概念や新たな地平線を描くことができ、喜びが得られた。その喜びの内容について、得られた新たな概念について話して行こう。
古典的美少年の三つの構成要素
ホンダソウイチ氏の美少年らによって変えられた私の美少年観を語るために、私がここで考える古典的美少年観について論じる。ここでいう古典的美少年観というのは、歴史的な美術や文学に登場する美しい少年像もあるが、「美少年展」で取り上げられている現代的な美少年らを念頭に置いており、現代において古典的な美少年である。補足であるが、「古典的」というのは”Classical”であり、「学級(“Class”)」で教えるに値するものである、ということを指しており、古臭いなどの意味はない。この概念が重要となるのは、ホンダソウイチ氏の美少年が重要なのは、我々のの理想像や観念と何が違うのか、何が共通しているのか、何が革命的なのかの理解に影響を与えるからである。
同じく「美少年展」で展示されていた Sitry 氏(@sitry_kk)の作品は、まさしく私にとっての古典的美少年であり、肌が白く、線が細く、中性的な顔立ちであり、少年の無垢さや憂いもあり、大正昭和の病院小説に出てくる美少年像を彷彿とさせる。なお、これほどに”Classical”な美少年を描ける人がいるのかと筆者は驚嘆しているのだが、Sitry 氏と氏の作品について語るのは別の機会にしたい。
— 🫀𝓢𝓲𝓽𝓻𝔂🥀 (@sitry_kk) January 7, 2023
Sitry 氏の作品に描かれている美少年の要素以外にも多くの要素があるだろう。しかし、ここでは網羅的な記述をせず、古典的美少年の要素として私が考えている 3 つの要素として、次を挙げる。
- 純粋さ
- もしくは、純粋さが失われることへの儚さ
- サド的欲望を惹起させる純粋さ
- 無垢さ
- 何者にもなれる余地としての無垢さ
- 性の未分化
- 性欲の濁流の未体験
- 役割の未分担
純粋さを筆頭に、いずれにおいても、少年であること故の美しさ、そして、少年でなくなることを予兆させる故の美しさ、というのがある。特に、第二次性徴に伴う性欲の濁流を味わった男からは、純粋さ、無垢さ、性の未分化というものがなくなってしまう。かつて少年だった者は、それを実体験として分かるであろう。かつて少年だったものは、過去の自分の中性的な顔立ちや声を思い出し、かつて少年だった者独自の眼差しによって現在少年である彼に美を見出すことができる。武田肇が『半ズボンの神話』で述べていたのは、事実その通りである。
『美少年』の美は観察者のものであって、少年本人とは無関係である
かつて少年だった者にとって、自分が少年でなくなった大きなイベント、ならびに、少年と青年との違いを見出す要素、それこそがペニス臭さである。それ故に、ペニス臭さがないこと、静的成熟がないこと、特有の生理的変化が起きていないこと、これらの特徴をもつ少年に美を見出す傾向が、かつて少年だった者にはある。
ペニス臭くなっても無垢であり続けられるのだろうか
少年の命は夏の一日である。
青年期へ足をかけ、ペニス臭くなったらもうおしまいである。
古典的美少年の構成要素には、性が分化されていないことや、性欲の濁流を体験していないこと、ペニス臭さが出ていないこと、といった肉体的物理的特徴が挙げられる。社会的にも生物学的にも男女にある役割の違いを意識してしまえば、もうあの時の純粋さや無垢さがなくなってしまっている。そのような存在となってしまえば、もう青年である。性的交渉の経験や喉仏というのは青年の象徴であるはずだ。
しかし、ホンダソウイチ氏の描く美少年は、美少年であるはずにも関わらず、直接的な性描写が描かれていることがある。つまり、性欲の濁流を経たはずである。さらに、性描写がなくとも、喉仏という明確な性徴が示されながらもなお、氏の描く美少年は少年で有り続けるのはなぜだろうか。冒頭の聖歌隊の話にもあるように、喉仏が出るというのは、あの甘美なボーイソプラノが出せなくなる喪失体験を味わうことである。さらに、喪失体験を味わった者は、喪失していない者への羨望の眼差しを抱いてしまい、そのような眼差しを持つ人はもはや美少年ではなくなるはずである。
年齢の上では青年になっても、美少年であり続けられる理由は、氏の描く彼らが無垢であり続けているからだ。氏の他の作品からも発見できる。たとえば氏の画集『アオニサイ』と『GHOST』の舞台は現代がメインである。作品の一部の要素を取り出すと、バンド活動をしていたり、灰皿を満タンにしたり、強いお酒を飲んだり、不健康な食事をしたり、恋人を強く抱きしめたり、涙に瞳を歪ませていたり、している。無垢であり続けている、というのはつまり、彼らは何者にでもなれる余地を残している、ということである。家族や社会から求められ、それを自分に与えられた目的として受け入れた青年と彼らは異なる。彼らは、自分らの可能性を制限せず、無垢であり続けているからこそ、美少年であり続けている。そして、荒井亮二(上述の画集の登場人物の 1 人)が涙を流しているのは、その無垢さが失われること、少年ではなくなることを象徴しているのかもしれない。
性の未分化、もしくは、社会的規範の非内面化
ペニス臭さの有無や無垢とは別に、性の未分化がある。性の未分化とは、単に中性的な容姿や体型を持つことだけでなく、性別に基づく役割分担がない状態を指している。事実、我々の趣味嗜好の多くは性別ごとに色や振る舞いなどを社会から期待されたものを内面化した結果である。学習以前の少年少女の段階から特定の色や特定の振る舞を好んで選択しているように見受けられるが、実際のところは、子どもたちは単純に親などの近しい人からの好意的な反応を得るための傾向であって、この段階において社会規範の内面化が行われているわけではない。社会的規範をまだ受容していない段階の少年少女は、社会的な役割分担を身につけていない。だからこそ、少年も可愛い少女として振る舞うことができ、少女も活発な少年として振る舞うことができる。このような振る舞いは、自然であり、無理に作り出された人工的なものではない。
ホンダソウイチ氏が描く美少年の何人かは、そのような社会規範の内面化が行われていないように見受けられる。例えば、女性らしい仕草として知られる口元に指先を合わせる仕草を自然に行っている。もしくは「貴婦人百合男」の場合は、美少年であるだけではなく、美青年や femboy 的な要素も見受けられる。彼らは女性的な振る舞いを自然に行っている。「自然である」というのは、肉体や社会への反抗ではなく、そう振る舞うこと・そうであることが当然であるという姿勢や態度が現れているということである。ここにおいても、私が考える氏の美少年の特徴が現れている。つまり、社会的な男女の役割の分割がなされておらず、性が未分化である。
ここまでホンダソウイチ氏の描く美少年と、そこから見出した私の中の古典的美少年観について語ってきた。少年の美というのは肉体も関係するが(もちろん氏の描く美少年には肉体的な美しさがある)、精神も大変関係していること、むしろ、その精神が肉体という表面によく現れていることによって、彼らが美少年であることがわかってきた。一度、氏の『親密』のインスタの画像を見てから、本記事の結論へと進もう。
結論: 肉体的美少年だけではなく、精神的美少年は存在する
「古典的美少年観」という言葉によって私が表現していた、過去の私の中で支配的だった美少年の捉え方は、肉体的・物理的な要素に焦点を当てたものだった。しかし、美少年にとって精神的な要素が支配的であることをホンダソウイチ氏の『親密』は示してくれた。もちろん、少年が青年になるところでの肉体的変化と精神的変化にはある種の関連性があるが、それは因果関係と捉えるよりも相関関係であると捉えるべきである。美少年は精神的に存在しうる。古典的美少年観の各要素は確かに少年期に全て当てはまり、第二次性徴とともに失われる傾向にある。しかし、そのいずれかを保持することができれば、その人は美少年であり続けられるのだ。それが精神的要素である。
ホンダソウイチ氏の『親密』以外の具体例として、能において、美少年の役を老人が演じることも、精神的美少年の例示に役立つだろう。老人であっても、ひとたび慈童の面をつけたら一人の美少年がそこに現れる。その少年はテレビに出演しているようないわゆる美形の少年よりも圧倒的に美しい。
舞台などのフィクションという構造のない実在の人物でも精神的美少年は存在し、三島由紀夫が例として考えられる。三島由紀夫は、一般的な美少年のイメージとは外れており、事実、彼の年齢や肉体改造を見るとどうして美少年であると言えようか。しかし、彼の左翼的革命精神と自決、小説とその中で描かれている輪廻と永遠の少年の美を求める人物、そして彼の普段の言葉遣いから、彼が明らかに精神的に美少年であったことがわかる。
純粋さ、無垢さ、性の未分化などは、肉体の成長とともに失われるものと考えられている。しかしながら、それらを保持し続けることは可能であり、それによって、人は精神的に美少年になりうる。それが、能面であったり、作家の人生であったり、そして、ホンダソウイチ氏の『親密』であったりするわけだ。
次の話の予告
これまで本記事では美少年とは何かについて長々と語ってきたが、肝心のホンダソウイチ氏の『親密』についてはあまり多くを語らなかった。その理由は、第一に、私の構成能力のなさによるものである。また、私の中の美少年観がどのように変化したのか、それほどまでにこの作品が大きな影響を与えたことを説明するために、多くの紙幅を割く必要があった。
なお、ホンダソウイチ氏の『親密』については、2 週間後に公開を予定している記事で詳述する予定である。次回の記事では、この作品について、私が大切に思う点や『親密』の三人の関係性について、および、額装意図についても話す。また、今回深く触れなかったところの三要素のうちの一つ「純粋さ」については、次回記事の中心的な役割を持つ。本記事は、次回記事を読むための文脈の提供としての役割藻になっている
今回の記事が気に入っていただけたら、執筆するにあたって参考となった以下の書籍を読んでもらえると嬉しい。以下の書籍は、今回の記事の執筆、また、ホンダソウイチ氏の『親密』を買うための決意を抱くための自分自身の内面を明らかにするのに大いに役立った。
次回記事では、『親密』について深く掘り下げ、この作品がなぜ私を魅了したのか、額装したいと思ったのか、純粋さが彼らの中でどう変わっていくか、などをお伝えする。2 週間後にまた。
それでは。
青を心に
仲葉あたお